発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)とは何か

~肩書ではなく生命の本質に目覚めること~

現代社会では、

人は肩書で評価されることが少なくありません。

総理大臣。

大統領。

国家主席。

財務大臣。

厚生労働大臣。

経団連会長。

日本医師会会長。

裁判官。

検事。

官僚。

事務次官。

長官。

大企業の社長。

世間ではこうした人々を「偉い人」と呼ぶことがあります。

しかし仏法の眼から見れば、

それらはすべて一時的な立場に過ぎません。

なぜなら家に帰れば、

一人の父親であり、

一人の母親であり、

一人の夫であり、

一人の妻であり、

一人の人間だからです。

そして死の瞬間には、

権力も、

地位も、

財産も、

肩書も、

何一つ持って行くことはできません。

法華経が説く生命の法則の前では、

万人が平等なのです。

この真実を明らかにする法理が、

発迹顕本

です。


発迹顕本とは何か

発迹顕本とは、

文字通りには

「迹を発いて本を顕す」

という意味です。

迹とは仮の姿。

本とは本来の姿です。

つまり、

仮の姿を開いて、本来の生命を現すこと

です。


法華経における発迹顕本

法華経の寿量品で釈尊は、

インドで初めて成仏した仏ではなく、

久遠の昔から成仏していた仏であることを明かしました。

インドに生まれた姿は、

衆生を救うための仮の姿だったのです。

これを発迹顕本と言います。


現代人の「迹」

私たちにも様々な迹があります。

政治家。

官僚。

経営者。

医師。

教師。

会社員。

無職。

学生。

あるいは、

金持ち。

貧乏人。

成功者。

失敗者。

こうしたものはすべて、

人生の中で与えられた役割です。

しかしそれが人間の本質ではありません。


死の前では皆平等

どれほど権力を持っていても、

死を避けることはできません。

どれほど財産を持っていても、

死後に持っていくことはできません。

どれほど地位が高くても、

生命の因果の法則から逃れることはできません。

仏法は、

人間の真価は肩書ではなく、

生命そのものにあると説きます。


十悪と三悪道

仏法には因果の法則があります。

人を苦しめる。

人を騙す。

人を搾取する。

生命を軽んじる。

権力を私利私欲のために使う。

そうした十悪を重ねれば、

その原因に応じた結果を受けることになります。

反対に、

人を幸福にする。

人を守る。

正義を貫く。

生命を尊ぶ。

そうした行いは善の因となります。

肩書がその人を決めるのではありません。

何を考え、

何を行い、

どのような生命を築いたかが重要なのです。


本当の自分とは何か

では本とは何でしょうか。

それは仏性です。

生命の奥底に具わる仏界です。

智慧。

慈悲。

勇気。

正義。

生命尊厳の心。

これこそが本来の自分です。

発迹顕本とは、

そうした本来の生命を現すことなのです。


日蓮大聖人が示された発迹顕本

日蓮大聖人は、

流罪や迫害という大難に遭われました。

しかし苦難によって屈するどころか、

かえって法華経の行者としての使命を明らかにされました。

苦難によって本来の御境涯を顕されたのです。

これこそ発迹顕本の実践でした。


現代社会に必要な発迹顕本

現代社会では、

肩書や権力を持つことが成功だと思われがちです。

しかし仏法は問いかけます。

「あなたの生命は何を積み重ねているのか」

「死の瞬間に残るものは何か」

と。

発迹顕本とは、

権力者になることではありません。

有名人になることでもありません。

肩書に執着する自分を超え、

生命の本質に目覚めることです。


南無妙法蓮華経による発迹顕本

日蓮大聖人は、

末法の人々が本来の生命を現す道として

南無妙法蓮華経

を説かれました。

題目を唱えることによって、

仮の自分ではなく、

本来の仏性が現れてきます。

地位や財産を超えた、

生命そのものの尊厳に目覚めるのです。


まとめ

発迹顕本とは、

肩書や立場という仮の姿を超え、本来の生命を現すこと

です。

総理大臣も、

大統領も、

経団連会長も、

裁判官も、

官僚も、

死の前では一人の人間です。

そして因果の法則の前では、

誰も例外ではありません。

だからこそ仏法は、

権力ではなく生命を見よ、

肩書ではなく仏性を見よ、

と教えるのです。

発迹顕本とは、

人生の最後に残る本当の価値とは何かを問いかける、

法華経の深遠な生命哲学なのであります。

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