~生命はどこから来て、どこへ向かうのか~
人類は古来、
「私はどこから来たのか」
「死んだらどうなるのか」
「宇宙はいつ始まったのか」
という根本的な問いを繰り返してきました。
科学は宇宙の成り立ちを研究し、
宗教は生命の意味を説いてきました。
しかし日蓮仏法は、
生命の最も深い根源について、
「久遠元初」
という法理を明かしています。
これは単なる歴史や年代の話ではありません。
私たち一人ひとりの生命の根本に関わる教えなのです。
久遠元初とは何か
久遠元初とは、
文字通りには
- 久遠(くおん)=はるか永遠
- 元初(がんじょ)=最初、根源
という意味です。
しかし仏法でいう久遠元初は、
単に「ものすごく昔」という意味ではありません。
時間で測ることのできない、
生命と宇宙の根源を指します。
久遠元初の仏とは
法華経の寿量品で釈尊は、
「私は今世で初めて成仏したのではない」
と明かしました。
さらに、
五百塵点劫という想像を絶する昔に成仏したと説きます。
しかし日蓮大聖人は、
さらにその根底にある真実を明かされました。
それが
久遠元初の自受用身如来
です。
つまり、
宇宙と生命の根本法を体現した仏です。
始まりのない生命
私たちは普通、
誕生日を生命の始まりだと思っています。
しかし仏法では、
生命は今世だけの存在ではないと説きます。
生まれる前にも生命はあり、
死んだ後も生命は続いていく。
生と死を繰り返しながら、
生命は永遠に流れている。
これを生命の永遠性と言います。
久遠元初とは、
その生命の根源なのです。
太陽と光の譬え
太陽から光が出るように、
生命にも根源があります。
しかし太陽と光が別々ではないように、
私たちの生命も久遠元初の法から離れて存在しているわけではありません。
本来は一体なのです。
ところが無明によって、
そのことを忘れてしまっています。
無明とは根本的な迷い
これまで学んだように、
無明とは生命の真実が見えない状態です。
自分は小さな存在だ。
死ねば終わりだ。
幸福になれない。
そうした迷いです。
しかし久遠元初の法から見れば、
私たちの生命は無限の可能性を持っています。
仏性を具えています。
仏界を具えています。
それを忘れている状態が無明なのです。
発迹顕本と久遠元初
発迹顕本では、
仮の姿を開いて本来の姿を現すことを学びました。
では、
本来の姿とは何でしょうか。
それが久遠元初の生命です。
肩書でもありません。
財産でもありません。
権力でもありません。
生命の奥底にある仏性です。
発迹顕本は、
久遠元初の生命に目覚める過程とも言えます。
久遠元初と十界互具
十界互具によって、
どんな人にも仏界があることが明かされました。
なぜそんなことが可能なのでしょうか。
それは、
すべての生命が久遠元初の妙法を根本としているからです。
地獄界の人にも。
餓鬼界の人にも。
修羅界の人にも。
仏界の種がある。
それは久遠元初の生命につながっているからなのです。
現代人が忘れているもの
現代社会では、
学歴や収入や地位ばかりが重視されます。
しかし死の瞬間、
それらはすべて置いていかなければなりません。
総理大臣も。
大統領も。
経団連会長も。
官僚も。
裁判官も。
誰一人例外ではありません。
最後に残るのは生命そのものです。
だから仏法は、
肩書よりも生命を見よ、
権力よりも因果を見よ、
と教えるのです。
日蓮大聖人が明かされた久遠元初
日蓮大聖人は、
久遠元初の根本法こそ
南無妙法蓮華経
であると明かされました。
これは特定の民族や国家のための教えではありません。
全人類のための法です。
過去・現在・未来のすべての人々が成仏するための根本法なのです。
南無妙法蓮華経と久遠元初
題目を唱えるとは、
単に願い事をすることではありません。
生命の根源である久遠元初の妙法と、
自分の生命を響き合わせることです。
すると、
仏性が現れる。
智慧が現れる。
勇気が現れる。
慈悲が現れる。
これが成仏の道です。
まとめ
久遠元初とは、
生命と宇宙の根源であり、時間を超えた永遠の法
です。
私たちの生命は、
その久遠元初の妙法を根本として存在しています。
だからこそ、
仏性がある。
だからこそ、
成仏できる。
だからこそ、
宿命転換も、
人間革命も可能なのです。
日蓮大聖人は、
その久遠元初の根本法を
南無妙法蓮華経
として明かされました。
久遠元初とは遠い過去の話ではありません。
今この瞬間の私たちの生命の奥底に脈打っている、
永遠の生命そのものなのであります。

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